昭和42年9月21日 朝の御理解
何のけいこをさせて頂くでも、その、けいこをしておることが上達して行く。だんだん、それが本当なものになって行く。そこに、限りない楽しみと喜びがあると思うのです。まして、信心のけいこにおいては、そこのところが、いよいよ、信心のけいこの実が上がって行くというおかげを頂いてこそ、初めて信心が尊いものになる、有り難いものになる、限りないおかげに触れて行くことが出けるのです。
どうでしょうか、皆さん、信心のけいこを、日々こうやってさせて頂いておるが、その実がどれほど上がって行って行きよるか、どのくらい分かって行きよるか。どのくらい、信心が本当なものになって行きよるかということが、楽しみでお参りになっておられる、けいこに通うて来ておられるという方が、私は全部が全部、そうで在らなければいけないと思うんですけれども、はたして、皆さんどうでしょうか。
ここには、信心のけいこに来るところと、こう仰るが。信心が、お話を頂けば頂くほどに、なるほど、なるほど、と合点が行くことが自分にも分かって来る。ね。そこんところを、教祖は、信心をしておれば一年一年有り難うなって来ると、こう仰る。信心をしておれば、一年一年有り難うなって来るところのおかげが、皆さん頂けておるでしょうか。
五年信心しております、十年、十五年、信心を続けておりますと言うてもです。信心のけいこをさせて頂いて、そのけいこが本当に身になって行く、血になって行くということが、自分にも感じられて、一年一年有り難うなって行ってないとするならですね、皆さん、本気で自分の信心の、一つ在り方の間違いということ。なら、自分は信心のけいこをしておるんじゃないということをですね、ただ、ご利益、ただ、おかげというだけで、十年、十五年続いておるんだとするならですね、もう、これは大変な惜しいことです。
参りゃあ参るがたあるけん、参りゃあ参るだけおかげを受けるから、というだけぐらいなことが、もし、この合楽通いであったとするならです、それは、もう大変に惜しいことです。ね。どうぞ皆さん、信心のけいこをさせて頂く者がです、何のけいこでも同じですけれども、そのけいこをしておるということが、自分のものになって行く。けいこをして行きゃあ頂ける、楽しみが増してくる。しかも、それが限りがない。
これは、もう、何のけいこだって同じです。まして、信心のけいこはですね、その答えというのは、心の中に感じるところの有り難い。いわゆる、勿体無いことじゃなあと、有り難いことじゃなあ、と。おかげを頂いて、有り難いと思うのはですね、あれは本当の有り難いじゃないです。例えばね、医者が助からんと言うとった病人が助かった。こういう金銭のおくり合わせを頂いた。こういう、難儀な問題がおかげになったということはですね、それを頂いてから有り難いと思うのは、もう、それは当たり前のことであって、そういう有り難いていうのはですね、必ず薄うなって行くです。
一年一年有り難うなって行くというものにはならんです。そん時は、本当にもう、それこそ有り難いと思うておったんだけれども、日が経つにしたがって、年が経つにしたがって、その有り難いというものは薄うなって行くもんです。ところが、信心は一年一年有り難うなって行くという、ではないことが分かるでしょうが。ね。真に有り難いと思う心が、すぐにみかげのはじめと、こう仰るように、私どもが心の上に有り難いなあ、と思う心。勿体無い事じゃなあ、と思う心。そういう心が、段々だんだん、去年よりも今年というようにです、それが、本当なものに育って行くということがです、そういう有り難いと思う心にです、もう限りなく頂けれるのが、またおかげでもありますから、そういうおかげに対して、有り難い、勿体無いと分からせてもらう信心にならなければ、信心は何十年しておってもならんですよ。ね。
だんだん、信心が分かって行く、信心が好きになって来る。第一、拝むことが好きになって来る。御神前に出ることが何とはなしに有り難い。朝参りでもさせて頂くことは有り難い。御神前に額づかせて頂いて、ね、天津祝詞を奏上させてもらい、大祓いを奏上させてもらい。もう、本当に、繰り返し繰り返し祈らせてもらうと言うか、お礼を申させてもらうと言うか、お詫びを願いを繰り返し繰り返しさせて頂いておりますとです、もう、何とも、何とも言えん有り難さ。もう、何とも、これは、もう、あの、名状しがたい。表現のし様がない。神様と私どもが一つになって、こう、溶け合って行くような有り難さ。
そこの神様との間にですね、もう、何も無くなってくる。ただ、有り難い勿体無いというものが広まって行くだけ。ね。そういうものも出けて来なければいけませんのに、ここでは、せっかくお参りをして来てから、ポンポンと拍手を打って、とこう、お礼をしただけで、立ち上がって帰って行く人がある。
せっかくお参りをさせて頂いたのに、心行くまでの御祈念もせずに帰って行くなんて、こんな馬鹿げた話はない。これは、朝の御祈念じゃないですけども、ここで皆さんが一生懸命、御祈念を、あの、久留米の笠さんなんか、いつも八時頃から参って見えますけれども、もう、どんなに忙しい、どういう時でも、もう、それこそジーッとこのお広前の真中に座ってから、御祈念をしておられる。
もう、それがですね、こっから見ておってもね、もう、本当に有り難い感じが致します。もう、とにかく、ジーッと御祈念をなさっておられる。あれだけでもですね、やはり、合楽通いの値打ちがあると私は思うんです。まあ、笠さんのだけのことじゃありません。皆さんでも、やっぱりそうでございましょうけれども、一緒に御祈念をしておるから、私が分からんだけのことかも知れません。
拝むということがですね、有り難さ、楽しさというものがです、もう、段々だんだん、深うなって行かにゃいかんのですよ。どうでしょうか皆さん、祈ることが、拝むことがですね、本当に楽しゅう、有り難うなって行きよるでしょうか。神様と一つになれれる道なんですよ、この祈るちゅうことは。
ただ、わが言うことだけ、ただ、お願いします、お願いしますという事だけ一遍でん言うたら、もう御祈念が終わってしまう。こんなにつまらん話はありません。それは、はじめは仕方がありませんけれども、そこで、信心のけいこをさせて頂くなら、まず、形の上におきましてもです、ね、決して形式や形じゃないのですけれども、形も覚えさせて頂く、この拍手ひとつの上にでもです、研究せにゃいけんのです。ね。
天津祝詞を奏上させてもらう、大払いを奏上させてもらう。その自分の、この、声色とでも申しましょうかね。それでも、私は、もう腹の底から大払いを奏上させてもらう稽古をさせてもらわにゃいかんのです。自分で自分の心に、自分の言葉にね、酔うてしまうぐらいな。「高天原に神様在ります、かむろぎかむろぎ・・・」とこう、本当にあげております自分の言葉です、自分のあげておる、その大払いを奏上しておる、その声に酔うてしまうような心持ち。皆さん、どうでしょうか。もう、椛目から合楽にかけて、五年、十年もお参りしておるのに、まだ大祓いいが良うあがらんていう人があるようなことはないでしょうか。
けいこをしていない証拠ですよ。ね。それは、形のことなのですけれども、大事なことなんです。ね。一生懸命に拝む。何か頼む時だけ一生懸命頼むという、あれとは違ってですね。もう、御神前に出らせて頂いたら、もう、場合によっては一時間でも、ね、本当を言うたら二時間でもお礼を申し上げさせて頂きよったら、もう、繰り返し繰り返し、お礼が尽きないのである。
お詫びをはじめたら、もう、お詫びをせねばならんことのあまりに多いことに、驚くほどである。繰り返し繰り返しお詫びをさせて頂いておる内にです、神様から許されたといったような気持ちが、心の中に段々頂けてくるのです。そこに、信心の喜び、楽しみ。ね。まあだ、私はそういう、拝むということ、そういうようなことが本当なものになって行かなければいけないと思うんですよ。ね。
どうでしょうか、その拝むこと一つでも、本当なものになって行きよるでしょうか。ポンポンと拍手を打ってから頭下げて、また、ポンポンと拍手打って、もう、それで拝んだと、お礼を申し上げたというような、それでも聞いて下さいます、神様は。けれども、それではです、ね、一年一年有り難うなって行くということになって来ないのですよ。ね。
どういうような信心をさせて頂いたら、一年一年、有り難うなって行くのであろうか。まあ、有り難うなって来る決め手とでも申しましょうかね。私どもが、日々、生活させて頂く上に様々な問題がございます。ね。様々な、成り行きの中に様々な問題が、事柄がございます。それを受けて行くと言うか、処して行くというか。ね。そのことに取り組んで行くというか。その取り組み方がです、段々だんだん、赤抜けしたものになって行くというところにです、赤抜きして行くようになって行けば行くほどに、心の中に感ずる有り難さというものが強うなって行くもんです。
もし、有り難うなって行ってないとすんならです、いかに、その、取り組んでおることに、その成り行きをです、大事にしていないか、取り組んでいないかということが分かります。有り難うなって行っていないとするならです、はあ、例えば、こういうような、一つの大きな難儀な問題がです、もし、これが信心が分かった時であるならば、いや、一年前であったならば、これを、それこそ、どんな風にして受けて行っただろうか。腹立ちを持って、情けないと思うて、汚い心で、これを受けて行ったに違いないのだけれども、その問題が有り難い心で、美しい心で、しかも、元気な心でその問題が処して行けれるという事がです、本当に信心ちゃあ、有り難いものだということになって来るんですよ。ね。
そういうようなものが育って行くというか、そういうものを感じる時ですね、私の心の中に感じるのは、有り難いという心なんです。ひょっとすると、それを神様が喜んで下さっておるのでございましょうね。例えば、百斤の難儀な問題をです、もう、それこそ青息吐息で受けよったのがです、もう、百斤ぐらいな問題なら、全部持つことが出来るという力が出けた時にです、その力が出けて行きよる様子を、姿を神様がご覧になって喜んで下さる。
その喜んで下さるのが、私どもの心の中に通うて来る。また、自分も楽しい。一年前だったら、こんな問題はとても自分では持ちきらなかったのに、それが平気で持てれる、有り難く持てれる。どうでしょうか、そういうような風に、皆さんの周辺に起きてくるところの様々な問題がです、気安う、見やすう、ただ、もう、有り難いという一念で受けて行けれる。元気な心一つで受けて行けれるというようなです、ものが育って行きよるとするならです、もう、絶対、有り難いというものは育って行きよる時です。
ちょっと思うてみても、本当に有り難いことじゃあるなあ。こういうような、例えて言うならば、腹の立つような問題がです、ひとつも腹の立ってない自分。いや、むしろ、それを有り難いと受けておる自分。ね。それが、信心ちゃあ、何と有り難いことじゃろうかという事になって来るのですよ。皆さん、本当にそこんところがですね、けいこがなされて行かなかったり、そこんところが自分のものになって行かなかったら、惜しいです。ここには信心のけいこに来るところと仰る。
ただ、足をここに運んで来ておるというだけ。ね。参りゃあ、参るがとおかげ頂くから。ね。頼まんならんから、願わんなんから、お伺いをせねばならんから、ここへ、例えば通うて来ておるんだとするなら、十年が三十年続いたって、その信心は、私は本当なものじゃないと思うです。
その証拠には、ちょっとしたことがあると、もう、顔色が変わる。もう、ちょっとしたことには、もう、その難儀を感ずる。ね。有り難い毎日もあったもんじゃない。いわゆる、信心のある者もない者も、ひとつも区別がつかんくなるです。信心のない者とある者とのです、違いというものをです、皆さんどこに感じておられるだろうか。ただ、おかげを受ける、ご利益を受けるということだけに違いを感じておるような信心であったら、それこそ、何十年、信心したって同じなんですよ。ね。
私どもの日々に、信心生活の中に起きてくるところの様々な問題をです、ね、それを何々との対決においてです、どのくらい、赤抜けした対決が出けるようになったかということだ。ね。それは困ったね、と言うておったのがです、それがおかげぞ、とこう、言えれる内容なんです。
さあ、困ったことになって来た。これが、信心のなかった時の姿。ところが、同じ事柄、問題でありましてもです、はあ、それはおかげだと、それはおかげぞと言えれるだけのですね、内容が育って行っておるかどうか、と。ね。一年前だって、一年後だって、やっぱ困った問題は困った問題。それは困ったね、と言うておるなら、信心のある者もない者も同じこと。ね。
もう、日々にですね、もう、様々な問題がございましょうが。もう、様々な問題が、私が、私どもが、どう受けて行っておるか、どう有り難く、それを処して行っておるか、それと対決しておるか。ね。その対決して行く内に、私どもは受けるのが、力なんだ。ですから申しますように、百斤しか持てなかったのが、今、普通、平気で持てれるようになる。そのことが有り難いのである、その事が楽しみなのである。
ね、だから、けいこさせて頂かなければおられんのである。ね。信心をしておれば、一年一年、有り難うなって来ると仰る。もう、本当に有り難うなっていないとするならです、一つ本気で、まず、ひとつ拝むことから、心に込めての御祈念が出来れるというようなことがです、ね。有り難いもんだな、信心っちゃ有り難いんだな、と。信心っちゃ有り難いもんだなということがです、そういう、一つの形の上を、形の体得からでも有り難いというものに入って行けれる。
また、絶対にこれは必要である。ね。と同時に、自分の心の上に受けて行くところのおかげ。自分の心の上に頂くところの力。ね。その力が段々、出けて行きよるということが有り難いのですよ。これが、もう絶対、有り難いという心が育って行くんですよ。ね。
そこに、私どもは信心をさせて頂きよるが、信心のある者ないモンとの違いが、どのくらいだん違いが出けて行きよるじゃろうかと思うた時にです、おかげを受けてるんだなあ、ということ。昨日の朝の御理解を頂いてから、幾人もの方がここでお礼お届けをなさったんですよ。ね。
その前の晩の合楽会の時に、久富さん、原さんたちが、はあ、ほんに合楽におかげを頂くようになってから十何年間。考えてみりゃ、その間、本当にお医者さんに手一つ握ってもらうこともなかった、注射一本うつこともなかった。お薬をということもなかった。
もう、これ、ちょっと、一人か二人かならですね、まあ、偶然ちゅうこともあるけれども、信心させて頂いておる者の、あの人もこの人もです、ほんに、お医者さんということは、言わんで済むようになっておることには、初めて気が付いたようにです、昨日は、ほんにゃ先生、私も今朝の御理解を頂いてから、ね、しかも私だけじゃない、もう、嫁入っておる娘も、家分かれしておる息子も、もう、本当にみんな元気であるおかげを頂いておるということが、改めて、おかげを頂いておることを気付いたと言うて、お礼を言うておられます。ね。
信心をさせて頂いておるとです、たしかに、そういうおかげを頂いておる、そういうおかげをおかげと分からせてもらう時です、有り難いというものが分かる、感じられるんですけれども。そういう感じと同じような感じが、日々です、感じられるのは、様々な問題に直面した時に、その問題をです、信心でそれを受けて行く。信心でそのことに対決して行けれる力が出けてというのは、もう、日々の中にたくさんあるのですからね。有り難いことじゃあるな、こういう問題をこういうような心の状態で受けられるということは、何と有り難いことであろうか、という和賀心、和らぎ賀ぶ心というものが育って行く。ね。
それが、信心っちゃ有り難いもんだなあ、ということになる。その有り難いものが、もう、限りなく大きくなって行くのであり、その有り難いという心が限りなく深められて行くのである。なるほど、信心をしとれば一年一年有り難うなって行くと仰るが、この生き方でさえ行きゃあ、一年一年有り難うなって行けれるなあ。この有り難いものが育ってさえ行きゃあ、もう、いよいよ、自分の、自分の一家が幸せになって行くことは、もう、火を見るよりも明らかであるという事なんです。
先はどげんなるじゃろうかと、不安が全然無くなる。この有り難いものが育ってさえ行けば。けれども、その、有り難いものが育っていないとするならばです、信心しておっても、先はどげんなるじゃろうかという不安があるです。私は、そういう信心が何十年続けられていたのだということ。ね。
まず、一つ、拝む、拝ませて頂くことのですね、一つ、楽しみと言うか、拝ませて頂くことの有り難さを体験しなきゃいけません。心行くまでの御祈念が出けれるおかげを頂かなきゃいけません。せっかく参って来たんじゃないか、朝早うから、眠いのをこらえて。しかも、それこそ月謝を収めるように、何がしかのお供えでもさせて頂いとるじゃないか。ね。
そんなら、けいこもして行かなけりゃ馬鹿らしいじゃないか。ね。御理解でも頂いて行かなきゃ馬鹿らしいじゃないか。しかも、その御理解が自分の身に血に、肉になって行かなければ、いよいよアホらしい話じゃん。ね。私は、信心の欲を、お互い持たなきゃいけないと思う。そして、けいこをさせて頂いておることのです、有り難さというものを、日々感じさせてもらい、そこに、日々のお参りもまた、生活も、生き生きとして来るんだという風に思うのですよ。ね。
有り難いという心におかげがあると仰る。願うたからおかげを頂くというのではなくて、有り難いという心に、願わんでも限りなく頂けて行くところのおかげを頂くためにも、皆さんがいよいよ、有り難うならせて頂くけいこに本気にならなければいけない。それには、まず、拝むことから。それには、先ず、私どもの周辺に起きてくるところの問題をです、それに、本当に信心が対決して行くということから。ね。
それを、見やすう、有り難く、楽にそれを受けて行けれることがです、ね、有り難うなって行く、有り難く、これはもう、思わなければおられんのですよ。こういう問題を、しかし、ほんにこれは、もう何年前だったら大変なことであったろうけれども、事は同じこと。問題は、同じことだけれども、今日の私というのは、これを平気で有り難く持てておるということがです、有り難いのですよ。どうぞ。